昭和50年12月25日 朝の御理解
御理解 第63節
「一粒万倍といおうが、一人がおかげを受けたので千人も万人もおかげを受けるようになるから、よい手本になるような信心をせよ。」
手本になるような信心をせよ。お互いが信心が果して手本になる様な信心をして居るだろうか。おかげを受けておると言う事は、皆おかげを受けて居る、おかげを受けておるといいもし思いも致します。だから勿論信心も熱心に致しております。けれども手本になるような、例えばおかげだけが見本ならそれでも良いです。金光様の信心をすりゃこんなにも健康になります。
金光様の信心をすればこんなに分限者にもなりますと、言う事でおかげをただ見本手本と言うならそれで良いですけれども、人間が矢張り信心をさして頂いたら手本になる様な信心をさせて頂かねばいけないと思うです。例えば信心の無い家族なら家族の者でもです。主人なら主人が信心をするお母さんならお母さんが信心をする。だからうちのお母さんだけは信心しなさるけん違う。うちのお父さんだけは本当にさすがに信心しなさるから違うと言った様な私は手本に先ずならなければいけないと思うですね。
金光様の信心すればこげなおかげが受けられる。私はこげな体験も頂いとる。だから信心しなさいと、只おかげを手本にしたのではです、本当の事じゃないようです。手本と言うのはどこまでも信心させて頂いて人間が出来る。そこで初めてあの人を手本にせよと言う様な事になると思うです。どうでしょうか皆さん家の子供やら、例えば嫁やら隣近所の人達から、本当にお隣は金光様の信心をしなさるからとにかく違いなさると。おかげは頂いとってもですおかげでは皆が私はあの合点しない。
そりゃ運が良いのだと言えばそれまでの事です、そりゃもう医者のみはなした病人が助かりました。そりゃあなた運が良かったのです、そりゃもう金光様の信心するごとなったらこの様にもうかった、そりゃあなた信心してない人でもどんどんもうけ出しよる人が居るじゃないですかと、言われたらもうそれ迄です。何と言うても手本になる様な信心とは、私は人間が本当に変る事だと思う。人間が立派になる事だと思うです。私は今日は本当にそれをそう感じます。
ああ家のお母さんは信心はしておられるのですが、まあちょいと根性が悪か、もうちょいとした事でプリプリ腹を立てられる。そしてずるいずるいと言う様なと言うなら、もう手本になるところがありません。もうちょっとの事で顔色が変わる、ちょとの事で腹を立てられる。ちょっとした事にガミガミ云いなさる。あれで金光様の信心頂いであるのであろうかと、例えば言う様な事では手本になりませんです。
まあ今朝私の失敗の巻を一つ聞いて頂きましょう。夕べここへ十二時過ぎに出て参りましてから、まだ子供達が準備のためにガヤガヤ騒がしゅう騒いで準備をしよりました。まあそれはそれで隣近所に迷惑にならん様にとは思ったけれども、まぁあの様な風にして育つのだからと、もう夜中に大きな声を出してやっておる訳です。それでまあその時もそうい風な頂き方をしました。
とにかくあんな風にして育って行くんだからと言うふうにまあ思いました。それから寝ませて頂きましたけれども、昨日はもう一睡も致しませんでした。それで三時十五分に何時もベルが鳴るのを鳴る様にしとりますが、その三時十五分のベルが鳴りよるから起きらにゃこてと思いながら眠っとる様です不思議なもんですね。あの眠りたい眠りたいと言う時にはどうしても眠られない。もうこりゃ眠っちゃならん、あと何分しかないけんでと眠っちゃならんと思うと眠っとるです。
だから眠れない眠れないと言う人はね、眠りたい眠りたいと言うよりも、眠っちゃならん眠っちゃならんと言うた方が早く眠るですよ。そんなもんです今日は直子が早く出て来てくれましたから、電気がついてハッと眼を覚ましたらもう十分過ぎとる。だから結局は十分寝んだ感じですね。そんな訳でまあ本当にどうした事であろうか、眠っても居らんのに只起なければならない時に眠ったと言う事はと思うてですね。
それから昨日宮崎からお孫さんに差し上げて下さいと言うて、色々子供達に頂いとりましたから部屋に持って行って、ちゃんと枕元に早うやすみなさい、明日はサンタクロースが何か良いもんを持って来てくれるからねと言うて、寝ませとりますもんですから、私は袋に入れてちゃんとその準備しとったんです。そして今朝起きて来て見て枕元に置いとったそれがないのです。
それから家内を起こしましてから、あれはどこにやったかと言うたら、はあ私があっちに片付けています。私が後からちゃんと出しときますと言うから、そげんしよる内におぞうだらどうするかと、私が言いよる所です。もう起きてからやったのではない。眼を覚ましたらそこにサンタクロースが持って来てくれていたと言う所に子供の夢があるのだから、まあそうガタガタ云やしませんけどそんなに思いました。
何んとほんとに夢の無い人じゃろうか、この人ばっかりはと言う様な感じですから、何か孫を喜ばせたいと言う、まあ何がもうすうっと取られてしもうた様な感じがする訳ですね。まあ家内は起きてから、その恐らく私がこちらに来た後にちゃんと直しとったとを出して枕元に置いたに違いは在りませんけれども、何かちょっとした心の、所謂感情ですね、それから控えに出て参りましたら
、昨日まで一輪花瓶に菊の花が挿してあったのが一寸開き過ぎてましたから取り替えて、小さい都忘れと言うのがありますね、それを一輪挿してありました。こう言うと如何にも上品に優雅に見えますけど、それこそおかしなおかしな花の心得の無い人が差したとじゃろうかと思うようにおかしいのです。葉はこう引っ込むしそれがこの小さい花ば花瓶に一つ一輪ざしと言うから一輪でも良かろうけれども、まあちっとこげなおかしな活け方はないと思う様に、こうやって取って捨てるごとの様な感じなんです。
それがどうかと言うと、すうっとなら私が部屋からこっちに出て来る間の心の状態がやっぱりそうなんですよね。何時もそんな気持ちになった事はないんですけど、そんな感じがする。例えば花なんかと言う者は本当に自分に自身が無かったら人の部屋には持っちゃ行かれませんですね。折角の花をこげな風にしてと思うたけれども、嫌な感じがします。だから花なんかと言う者は持って行く人が自信がなからなければ人の部屋に持って行ってちゃいけないと思うですね。
それが例えば、ならその只有難いとか勿体ないだけで、起きてくる時にはそれが枯れておろうが、活け方が悪かろうが何とも引っ掛らんのですけれども、心の何処かに一寸今朝家内に対する、どうした夢の無い女じゃろうかとこう思い思い来とる訳です。不平です不足ですですからそこに花を入れ替えてくれておる、だから私は自分の心でそれでも矢張り親先生が花が好きだと言うて、下手に入れてあってもそれをその心を受けたら良いじゃないかと、心の中に言い聞かせ言い聞かせする訳ですね。
成程親先生が気分が悪うなる様にと言うて花を入れている筈は絶対にありません。私は大体が花が好きじゃありますけど、余り賑やかな花は好きません。だから本当にそう言う風に本当に一輪と言う事になりましょうけれども、それも又如何に一輪と言えどもですもう本当にまあ、今私の部屋にしてある様な花ならもう無か方が良いと言う感じです。そして私は器そのものを何時もそして眺めるのですから、花は入れない方が良いのです大体は。けどもあそこに花瓶が置いてあるものですから。
誰かが何時も入れて呉れとる訳ですから。それを入れるなとも言いませんけれども、今日のなんかは取分けてその私の心の状態が良くないもんですから、良くないものも良くないとしてまあこんな入れ方をして、是なら入れん方が良かともうほんな事、言うなら屑篭の中に捨てたいごたるけれども、折角入れとるからと言った気持ちなんです。そして又ならこんな心の状態でほんに助かっとるとは言えないのですから。
その心に取り組む訳です。だからなら私が朝部屋から出て来てここまでは言葉にも出しませんし、なら表情にも出しません。心にそう思うたり感じたりした訳ですから、誰にも言わにゃ知りもせん。ですから私がその花を捨ててどもおるなら、花を入れた人に悪いけれども、只そのまま何ともないと云えば何ともないのです。けど人の部屋にお花でも入れる人は本当に心得のある人で無ければ、いきなりに入れちゃいけないなと思います。ただそれがね心の状態が有難い時にはです。
もうその花そのものじゃない。その心を受けるから有難いのです。所が人間はそういう時ばっかりはないですから、今朝の様に一番有難い筈の時にそういう心の状態、そして部屋に入ってからの又の心の状態がです、それでまあまあ自分の心の中に是を入れて呉れた人の心を頂こうと思うたら、心が平静になりました。けれどもそれでも本当に有難いと云う心ではないのです。
不思議に合楽の方達は大きな事が起て来たっちゃ、日頃の信心でドッコイと見事に受けます。それこそ松の素晴らしさと言うのは。寒中にしかもそれが雪が積もっとっても、むしろそれをふぜいにしておる様に、いろさえ変ないと言うのが松のねうちだと言われます。そう言うものを合楽の人達は持っとるです。難儀しとってもむしろ難儀がふぜいになる様な、又突発的にどう言う事が起って来てもドッコイこれが日頃教えを頂いて居る、それこそ神様のおはたらきの中に起きて来る事だから。
それをドッコイと修行で受ける心のつかい方などは本当に皆さん見事に出来とられると思います。私自身もそれがちっと大きい事であるならもう全然心に障らない位、それをむしろ有難い心で受けられるです。是は有難いですね。ところがですそんなもう普通で言うならば、馬鹿の様な小さい事に心を汚したり、そこから脱却する為にです、心をひねらんならん様な事では詰らん。
どんなに大きなおかげを頂いても、それこそ蟻の一穴からそういう小さい心の不用意である事からおかげを落とす元がないとも限らない。なら皆さんうっかりしてますからね。ほんな一寸した些細な事が腹が立って大きな喧嘩の元になるでしょうが。それをようくどう言う事が原因かで。例ば親子喧嘩なら親子喧嘩でもしたかと言う事をみると、たった些細な事からです。だからその些細な事が大事にされなければいけません、例ば今日の私の頂き方の様に顔にも出さなければ。
言葉にも出さなければそれで良いですけど、それでは自分自身の心が助からない。私は皆さん今日は人の手本になる様な信心と言う事は、そういう例えばどう言う事が起こって来ても顔色さえ変えんで済む程しの稽古を日頃しておる事がです、有難いからそれも素晴らしい手本になりましょうけれども、ほんなちょっとした事に、顔色変えられる家のお母さんばっかりは、ほんのちょっとした事に、家のお父さんはガミガミ言いなさる。これでは全然折角の素晴らしい手本になる様な信心を頂ながら。
もうそれで残念です終わりです。今日は私は今日の私の失敗から皆さんにこんな素晴らしい御理解になったのです。本当にこんな些細な事が例えば喧嘩の元になったり、その些細な事がです、自分の心の中に心が穏かでなかったりと言った様な事ではいけません。そしてまあだ心の何処かにスキッとしたものがない訳ですよね。本当にこの大きな信心ということは、どういう例えば眼の前が真っ黒うなる様な事が起こってもそれを平気でと云うか、元気でと云うか、有難く受けれれる稽古が大事です。
けれどもその些細な事小さい事におかげを、心の中にですよそりゃ信心しとるなら顔色にも出しますまい。言いもしますまい。今朝の私のようですけど、自分の心が助かっていません。それで御祈念中にその事を思わせて頂いて。本当に花の問題でもです、もうこの様な花なら入れて貰わん方が良かと言う様な心では、私の心が助かってないのだ。そこで、なら私はもう自分の心の中に、本当ににこれを入れて呉れた人の心だけを頂こうと思うけれども、心は穏やかになるけれども。
有難いと言う者は生まれてきません。そして御祈念中に私がフッと気付かせて頂いた事はです、大きな事は神様の例えば御働きであるけれども、小さい事は御働きではない様に思うておった事で御座いました。その些細な事も矢張り、神様の御働きだと言う事であります。もうそしたら途端に有難うなりました。ようこそ此の様な花を入れていて呉れたということになるのです。それに依って稽古さして頂いたんです。
これからは失敗する事はないでしょう。私共の前に起きて来る一切の事が神様がその氏子に下さった修行であると、そういう風に頂いとりますからです、私の前に起きて来た問題をです、どっこいと受けられるです。日頃稽古と言う事は有難い。佐田さんあたりの様に自分の方の倉庫が燃えよってもです、それこそ有難いと御礼がいえれる心が常日頃の信心でいわば出来て居るです。
所が些細な些細な小さい事です、顔色が変わったり、そこに口上を言わなけりゃならなかったり、イライラしたりと言う様な事ではあんまり小さい事だからと思うてなめて掛っているからであります。信心させて頂く者は、大きい事もそれこそ庭の松ではないですけれども、どんなに雪が積もって居っても色さえ変えない、ビクともしないその毅然たる信心を頂いておる事が有難いのですけれども、こんな些細な事から、いわばおかげを落とす元があります。
ですからその小さい事、些細な事にです、私共がたったこれ位の事がこんな些細な事が喧嘩の元になったとか、こんな些細な元がおかげを落とす元になったと言う事にならん事の為にです、心しておかねばならない。そしてそれも矢張り神様の御働きであったと、例えば今日の様な場合でも神様が私に朝から私にそういう、もう朝の私の一番大事にする、もう私の心の一番大事にするひと時の間にです、皆が心掛けて呉れます。私の心を乱してはならん、汚してはならない。
私は自分でも心掛けとる積りですけれども、今日朝の目覚めからが一寸間違っておったね。孫の枕元に置いておる物がなかったと言うだけでです、家内に対してお前ばっかりはと言う心になっておる。そして控えに出て来たら、又そこに一輪の花が入れてあるのが、良かったけれども私の全然気に入らない入れ方がしてあったからである。だから取ってしもうて捨てればそれで。見た目にはなくなりますからいいのですけれども、それでは花を入れて呉れた人に対して相済まん心の中で戦っている訳です。
そして花はともかくとしてその入れた人の心だけは頂こうと、言うだけではまだ本当じゃない。矢張り心も頂くなら花も頂かれる心の状態にならなければ本当な事ではない。そこで改めて分かった様であって分かってない事に、まあ何時の場合でも驚くのですけれども、その些細な事とても矢張り神様の御働きだと言う事。いやその些細な事で私の心を神様が試しておられると言う事。そこに初めてそれを入れて呉れた人の心にもお礼が云えれる。ならまたその花におかげでここが分かったと言うお礼がいえれるのです。
どうぞひとつ皆さん人の手本になる様な信心をしなければなりません。それには先ずおかげを見せて、こういう信心をすればおかげを受けられますよと言う事もです、確かに手本ですけれども、熱心な修行をする。一生懸命ならお日参りをする。とてもあの様な真似は出来んと言う様な素晴らしい手本になるような信心が例えば出来ましてもです、手本にして呉れなかったら何にもなりません。どんな手本になる様な信心しとっても、手本にしてくれない証拠に、付いて来ないじゃないの。
とても金光様の信心をすれば素晴らしかと思うとっても付いて来ん。だからそういうおかげも手本ですけれども、私は今日はそういう手本はです、本当な事じゃない。信心さして頂いて人間が立派にならなければいけない。人間が変わらなければならない。本当家のお父さんばっかりは流石なもん、金光様の信心しであるから、どの様な事が起こってもビクともされない。ほらもう家のお母さんばっかりは信心してあるけれども、たった是位事で顔色が変わったり腹を立てたりされると。
例えば言われる様な事ではいけないし、だからビクともせん様な信心はお互いが出来とるようだけれども、些細な事で顔色が変わったり、些細な事でです、問題の元にしておるような事では、こりゃ何時までたっても手本にはなりませんですよ。そして幾ら金光様の信心してあっても本当に、人が付いては来ない。今日は私の失敗談を聞いて頂いて、是は皆さんでも違わないここの所を、迂闊にしてあるだろうと思うです。
大きな事ならどの様な事でもうどっこいと受けるだけの度胸も出来とるし、神様の御働きである事も信じておるけれども、小さい事の場合には信じられない。小さい事の場合には顔色が変わるではいけない。その小さい些細な事とても、神様の御働きだと分からせて頂く時になら今日私がね、その花を入れて呉れた人の心にもお礼が言えれると同時にその花そのものにもお礼が言えると言う事になって来るのです。そういう私はおかげを頂いて初めて人の手本になる様な信心と言う事が言えるのじゃないかと思いますね。
どうぞ。